【聲の形】の映画で、主人公・石田将也がいつも洋服の首のタグを出しているの気になりませんでした?
映画だけかなと思ったら、原作の石田も同じようにタグを出して描かれていました。
これは何か意味があるのでは?と思い、今回は石田将也の服のタグがなぜ出ているのか、作者の想いなどを徹底調査・考察してみました。
【聲の形】石田将也の服のタグが出てる意図は?
石田将也の洋服のタグについては、作者曰く石田将也という人物の裏設定があるようです。
【裏設定】石田将也は自分への理解が足りない
石田将也のタグの真相については、公式ファンブックで触れられていました。
【裏設定】
Tシャツのタグや、シャツの裾が片側だけいつもはみ出しているのは、自分のことすら知ろうとせず、理解が及んでいないことの表れです。
公式ファンブック
【画像】石田将也のタグや裾がはみ出しているシーン
石田はこんな感じでタグがでたり、シャツの裾がはみ出したりしています。
ほとんどのシーンがこんな感じなので、さすがに見てる方も気になっちゃいますよね!
【考察】石田将也のタグや洋服についての原作者の想いは?
作者や制作側は、石田将也が自分を理解して向き合うまで成長を着こなし(外見)でも表現したかったのではと感じました。
石田将也が『自分への理解が及んでいない』という設定は、小学生のころからでした。(しっかりと服のタグがでている)
自分ことすら知らない=他人と向き合い思いやることもできないという状態だった石田将也。
そんな石田将也がイジメする側→イジメを受ける側→孤独→西宮との和解・友情を経て、最後は人の聲が聞けるようになります。
そして入院中に抜け出して、橋の上で西宮と再会した石田将也が言葉が、
「君に生きるのを手伝ってほしい」
というものでした。
これは今まで他人の顔も見ず、聲も聞かなかった石田将也が本当の意味で、友人である西宮祥子と向き合った証のような気がします。
自殺を図った硝子に対して、「生きてほしい」ではなく「生きるのを手伝ってほしい」という言葉を掛けたことで、硝子ただ1人で頑張らせるのではなく、自分(石田)も西宮硝子の人生に関わっていくことの表れでしょう。
自分に関心がなく身だしなみもどうでもよかった石田将也が、自分自身や西宮硝子、ほかの友人たちを向き合えるようになるまでの成長に目を向けてほしいという制作側の想いのような気がしました。
余談
本当の意味で西宮硝子と向き合い、無事退院した石田将也が高校の文化祭に向かうシーン。
朝から鏡で身だしなみを整えて、ネクタイを締めていたので個人的には、「やっとシャツの裾をしっかりと入れるのかな」と期待していました。
しかし期待を裏切ってしっかりと裾が出ていたところが、原作者たちの石田将也に対するユーモアな気がして、ほっこりしました。