2024年パリ・パラリンピックで、ブラインドサッカーの解説者を務めている、加藤健斗(かとうけんと)選手。
自身も現役の選手であり、視覚障害をもちながらも「画面は見えないけど音だけで解説する」という選手として活躍されてきたからこそできる解説方法で話題を呼んでいます。
今回はそんな加藤健斗選手のwiki経歴や、視覚障害の理由や時期について紹介していきます。
【ブラインドサッカー】加藤健斗選手のwiki経歴!
加藤健斗選手について、プロフィールや経歴を紹介していきます。
加藤健斗選手のwikiプロフィール
名前 | 加藤 健斗 (かとう けんと) |
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生年月日 | 1985年10月24日 |
出身 | 福島県福島市 |
ブラインドサッカー歴 | 2005年~ |
所属 | 日建創業株式会社 NPO法人サイクルリング代表 埼玉T.Wings Website |
資格 | 日本ブラインドサッカー協会公認B級コーチ 日本サッカー協会公認D級コーチ あん摩・マッサージ・指圧師 鍼師・灸師 一般社団法人日本収納検定協会 収納検定3級 |
福島県の出身で、小学3年生のころにサッカーと出会いました。
当時はヴェルディ川崎のファンで、憧れは三浦知良選手だったそうです。
そんな加藤さんが目の病気で障害を持ってしまった経緯については、こちらで紹介します。
加藤健斗選手のwiki経歴
加藤選手の経歴について、紹介していきます。
学歴/経歴
- 聖光学院高等学校 卒業(福島)
- 盲学校(福島)休学→自主退学
- 20歳でブラインドサッカーに出会う
- 筑波技術短期大学 卒業(現:筑波技術大学)
- 22歳でブラインドサッカー日本代表に初めて選出
小学校からサッカーを始めた、加藤健斗選手。
中学校は強豪校ではないものの、主将を任されるなどリーダー的存在でした。
高校は福島県内の強豪校・聖光学院に進みサッカー部に入ったものの、1年生のときに退部。
県外からの有力選手たちとの練習についていけず、ここで人生初の挫折を味わったんだとか。
その後は友人とハンドボール部に入部し日々練習する中、視力の低下を指摘される出来事がありました。
高校卒業後は視力が見えなくなる不安に駆られながら、盲学校の入学と退学を経験し、引きこもりだったという加藤選手。
その中でもご両親が見つけたのが、ブラインドサッカーでした。
地元福島県から近い、茨城県筑波にあるチームを見学した加藤選手と父親。
その翌年の4月~筑波技術短期大学に入学し宿舎で1人暮らしをしながら、大学生活とブラインドサッカーの両立を続けることを決意したそうです。
大学ではマッサージや鍼灸の勉強、終わればブラインドサッカーの練習をほぼ毎日繰り返した加藤選手。
もとサッカー経験もあることからプレーを始めて3年目で初めて日本代表に選ばれます。
初めて招集された2007年~2021年まで、抜けている年はあるものの、ほぼ継続して日本代表として活躍されてきました!
加藤健斗選手が高校生のときに遺伝性の目の病気が発覚
高校2年の終わりごろに、人とぶつかって目が腫れてしまったという加藤選手。
念のためにいった病院で、腫れている目とは逆の目の視力がほぼないことを伝えられたんだそうです。
それまでは自分でも気づかず診断はレーベル症という遺伝性の病気と告げられ、片方の目が見えなくなる可能性を受け入れられなかった、と話していました。
その病気自体が、当時の医学では治らない病気で、もしかすると片方の目が見えなくなる可能性もあると医者に言われたので、最初は受け入れることが出来ませんでした。
BALANCE TIMES
その後の高校生活で両目の視力が徐々に落ちていった加藤選手。
授業でも前の席から見えないときは、文字が拡大できるツールをして周囲にバレないように過ごされてきたようです。
高校を卒業しても少しは視力は残っていたという加藤さん。
いきなり目が見えなくなると言われた時の不安は計り知れなかったでしょう。
加藤健斗選手はブラインドサッカーで人生を持ち直した!
加藤選手は視力がなくなると医者に告げられたときは、「自分はこれから先何もできないんじゃないかな」と思っていたそうです。
確かに高校生に突き付けられる現実にしては、大きすぎますよね。
しかしブラインドサッカーと出会えたことで、夢をもち人の出会いに恵まれた話していた加藤選手。
「病気になって良かったとまでは言えないですが、また違った世界が見えたことはよかったですね。」と話していたのがとても印象的でした。
今後も所属チームでの活躍を応援したいですね!